よかばい堂、「老人と本」の一日を過ごすの巻
大学で昆虫の研究をしていた方から本の買い取りを頼まれた。福岡市の近郊にある今はもう使わなくなってしまった旧宅まで車で連れて行ってほしいとの要望だった。現在は退官して大学近くの集合住宅にお住まいなのである。
昼前に迎えに行き、一時間ほどの道連れの旅となった。初対面なので自己紹介のような話になってしまう。先方は大学の先生で昆虫の専門家。へえ、そんな虫がいるんですか、というようなごく限られた種類の昆虫の研究をしていたという。ここであまり詳しく書いて個人名が特定されてしまうとまずいのでこのへんにしておく。
この先生、頭はしっかりしておられるのだが耳が少々遠いらしく、電話が苦手らしい。弊店あての買取り依頼もメールで来た。
車中でも携帯電話がかかってくるのだが、10回ぐらい着信音が鳴ってから取るので(老人は行動が遅いのだ)、すでにもう電話は切れている。耳が遠いのでそれすらもわからないらしく、切れた電話に一生懸命話しかけている。「もしもし、どなたですか?私は耳が遠いのでよく聞こえません。もしもし? いま車の中なのでよく聞こえません」などと必死だ。そこまで真剣なら、もしかして電話はつながったままなのか思い、急いで車を停めるためにコンビニに入ったら、もう一度電話が鳴りだした。なんだやっぱり切れてたのだ。
そうこうするうちに目的地に近づいたが、ちょうど昼飯時になってしまった。先生いわく近くに「うどんウエスト」があるというのでそこで昼食をとる。
昆虫の話は車の中でひと段落し、食事中の話題はもっぱら二軒の家を行き来する大変さについてとなった。なんせ先生、家族の反対で免許は返納してしまったため旧宅へ行くのも一苦労らしい。なるほどそれで私に生きの乗車を依頼したわけである。以前は息子さんに頼んで論文に必要な資料やら何やらを運んでもらっていたらしいが、一度ものすごく重い資料を頼んだら、それに懲りてそれ以来近寄らなくなったそうだ。やむを得ず今ではなんでも屋さんに頼んでいるらしい。
先生、このようにちょっと笑えるところもあるのだが、さっきも書いた通り頭はしっかりしておられる。何でもまだ論文を書いているらしい。科学論文だから英語で書くわけだが、英語の得意な若手と連名にしたそうな。資料や知識の多さは先生の方が上だからお互いにその方がメリットがあるという。しかも今年の夏には国内で国際会議があるそうで、そこで発表するのだと意気込んでいる。なんともお元気で素晴らしい。
結局昼飯代は先生が支払ってくれた。本当はこのあと見積りが控えているので、こんなところで妙に借りを作りたくはないのだが、先生がかなりきっぱりとしていたので流れに任せることにした。
さて、旧宅に着くとさっそく本棚を拝見。なるほど大学教授らしく可動式の大型本棚が3台並んでいる。もちろんその多くは昆虫学とその周辺の生物学・生態学・植物学などの本。先生は重要と思う本についてはアマゾンでいくらぐらいの値が付いているかということことまで調べていて、手帳のメモを見ながら講釈してくれた。
ただ買える本はその中の一部に限られるので、その旨を申し上げ、買う本だけを抜かせてもらう。先生もこれについては先刻ご承知で、私が買わなかった本はすべて廃棄するとおっしゃっていた。
そこまで言われるともっと買いたいと思うのが古本屋の習性なのだが、いかんせんこちらとしても無尽蔵の倉庫があるわけではないので、洋書など足の遅い本はあきらめる。東京ならこういう本をメインに揃えている古本屋があるはずだから、古書店同士の市に出せばそんな古書店が買ってくれる。福岡では残念ながらそういうわけにもいかず泣く泣く断念。
無事買い取りが終わると、別の古道具屋が来ており、先生はその人に帰りは同乗させてもらうらしい。こういうしっかりしたところとユーモラスなとことろがある先生との楽しい一日だった。