図書館の廃棄本について考えてみる
先日高知県立大学の図書館が本を廃棄したことで新聞に取り上げられた(8月17日の高知新聞。「高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却 貴重な郷土本、絶版本多数」)。
記事によるとこうだ。「『完全焼却された図書』のうち、郷土関係は、土佐藩の国学者、鹿持雅澄が著したものを大正、昭和期に発行した『萬葉集古義』(1922~36年)をはじめ、『自由民権運動研究文献目録』(84年)、10年がかりで全国の自然植生を調べた『日本植生誌』の四国の巻(82年)など」
まず、本は捨てるものか? 答えは「イエス」。どの図書館も業務の一環として廃棄処分にしている。古書店には図書館から処分予定の本の入札案内が来ることがある。
ある公立図書館から福岡古書組合に廃棄本処分の通知があったので見に行ったことがある。3-4千冊の本を廃棄するので入札しないかということだった。弊店を含め数店舗が見たが結局どの店も応札しなかった。市場価値がない本ばかりだったから。
ご存知のようにアマゾンでは1円で本が買える。この図書館が廃棄する本もこの手のものがほとんどだった。これでは古本屋も手が出せない。かさばるだけでほとんど利益を生まないから。
ではこの廃棄本は結局どうなったのだろうか? おそらくは紙資源として回収されたか、ごみ処理施設に持ち込まれたかだろう。しかしリサイクル施設のない地方だったら焼却するしかないかもしれない。やむを得ずそうするわけで、誰がそれを咎められるだろうか。
いやいや、そんな1円本ばかりではないはずだ、実際に高知で捨てられた『萬葉集古義』なんて戦前の本じゃないか、きっと貴重に違いない、とおっしゃる向きもあるかもしれない。しかしネットで1冊数百円から売れれておりけっして希少とはいえない。「数百円とはいえ、もとはといえば血税で買った本、古本屋にでも売れば少しは回収できるじゃないか」という意見もあるだろう。たしかにそれも一理ある。ただし一理だ。
古本屋とて何でも買えるわけではないのは先に書いたとおり。それに本は重いしかさばる。3万8千冊は1箱40冊入れても950箱。弊店のバンで運んだら30回分!毎日ギッシリ詰め込んで休み無しに働いて一ヶ月!たぶんそれでも半分以上は商品にならないから結局は捨てなければならない。もちろんこれは机上の計算。古本屋も馬鹿じゃないから最初から捨てるような本は引き取らない。なので結局廃棄する本はどうやっても出てしまうのだ。
それに絶版本がつねに貴重とは限らない。この点については説明が必要だろう。
たとえば流行作家の小説の多くは絶版になっても必ずしも貴重とは限らない。人気作家の本は部数が多いので稀少性は出にくい。ためしに五木寛之の『青春の門 筑豊篇』の単行本(1970年 講談社)をアマゾンで見ると上下巻いずれも1円だ。有名作家の代表作で絶版だからと図書館に残しておくわけにはいかないだろう。この「絶版本」の入手はきわめて容易だし、だいいち読むだけなら文庫本がある。それよりも新入荷本のための棚の確保が優先するはずだ。
図書館の仕事は直接は見聞きしたことはないので、間接的な情報しか持ち合わせてないが、図書の選別と廃棄は業務の一環だと聞く。スペースが限られている中で次々新しい本が出版されるのだからそれは当然だろう。
一般論として本を大事にすることは当然だろうが、限られたスペースをやりくりする図書館が業務として行う「本の廃棄」を非難することは無理がある。処分の仕方について、多少の巧拙はあったかもしれないが、本の廃棄そのものはきわめて通常かつ正常な図書館の業務のひとつだとみるのが妥当だと思う。